私の実家じまい

山も田んぼもある田舎の物件は売れるのか?そんな実家じまいに取り組んだ1年間の記録

私の実家

私の実家は広島県北部の山あいにある小さな集落にあった。

町の中心部から10kmほど離れた30戸ばかりの農家の集まった小さな集落だ。信号機はもちろん自動販売機もない。

標高は400mを超え、一昔前まではクーラーがなくても夏を過ごせた。その分冬は寒く、雪が40~50㎝積もる。

実家の裏には小さな川が流れ、夏にはホタルが舞う。谷と呼ぶのがふさわしいようなその小さな川は南に向かって流れ、遠くには青く左右になだらかに傾斜する山の稜線を臨むことができる。唯一自慢できる風景だった。

 

実家は代々続く農家だった。

初代は明治5年に亡くなっている。名前を辰右衛門といった。自分はその5代目に当たる。

実家の建物は、役場の資料によると、昭和元年に建てられたことになっている。築90年以上ということになる。

田畑は全部で1ヘクタール、山林は10ヘクタールあった。

そんな農家の末っ子長男として生まれたのが私である。昭和28年のことだ。上に二人の姉がいる。

小学2年のときに父が亡くなった。

田植えや稲刈りなど忙しいときには、私たちきょうだいも手伝いをした。春や秋の連休の頃になると各地の観光地のにぎわう様子をテレビで見ていた。自分と同じ年ごろの子供たちが楽しそうに遊んでいた。その子たちがうらやましかった。

高校入学を機に実家を離れることになった。地元の大学を卒業し、大阪にある国の機関に勤めることになった。それでも、農作業の手伝いのために年2回は帰省していた。

結婚し、広島に転勤すると、帰省の回数が激増した。農繁期を中心に週末の度に実家に戻って農作業を手伝った。耕運機や稲刈り機など農機具を使っての作業が主な仕事だった。

しかし、それも長くはなかった。東京へ転勤することになると、再び以前のように年2回帰省する状況に戻った。

やがてバブルがはじけて、戸建てに手が届くようになり、横浜に自宅を構えた。

母を呼び寄せてはみたものの、わずか2週間で戻っていった。

実家をどうするかまだ具体的な考えはなかった。

年2回の帰省は継続した。実家の家の周りや休耕田の草刈りが主な仕事になっていた。

昭和38年頃