それは1本の電話から始まった。
2021年2月16日。定年再雇用で勤めていた会社を辞めて2か月余りが過ぎていた。
実家をどうするのか、まだはっきりとした方針は決まっていなかった。飲み仲間には「春になったら実家に戻って実家の管理をし、冬の寒くなる前に横浜に戻って過ごす」と言っていた。しかし、現実になると、なかなか決心がつかなかった。
もう2月の中旬になっていた。時間は有り余るほどあった。リタイアしたら料理教室に通ってみよう。陶芸教室も。そう思っていたが、新型コロナのせいでダメになっていた。自宅にいてできること。俳句、色鉛筆画、ベランダ菜園、ウォーキング、、、、。曜日ごとに今日はこれ、明日はこれ、その次の日は何、と毎日のルーティーンを決めて取り組む。そうすることで気を紛らわそうとしていた。
その日は俳句の日だった。NHKプラスで俳句の再放送をみながら俳句を勉強する。ルーティーンで決めていたその日の作業に取り掛かろうと、自宅の2階にある自分の机の前まできたちょうどそのときだった。スマホの電話が鳴った。
振り込め詐欺の電話が多いこともあり、見知らぬ相手からの電話には出ないことにしていた。
スマホの着信画面には、実家のある町の市外局番が表示されていた。実家の近所の人がまた何か言ってきたのかな?面倒でなければいいがなと思いながらも、その電話をとることにした。
「はい」
詐欺電話の可能性がないわけではないので、自分からは名乗らない。
「もしもし、○○さんですか?」
「はい、そうです」
「私は○○苑の事務課の○○ですが、お母さんが今朝突然意識を失われて。心停止になって、病院に運ばれることになったので、すぐに来て欲しいのですが」
「えっ、心停止?」
母は地元の施設に入っていた。前の年の11月、完全リタイヤすることの報告を兼ねて、会いに行ったばかりだった。
コロナ過のため直接面会することはできなかった。施設の玄関口に置かれた机の上のパソコンの画面越しの面会だった。
94歳という高齢にもかかわらず、ボケはなかった。目が悪いのでこちらをはっきりと認識しているのかわからなかったが、口は相変わらず達者だった。いずれ白寿の祝いもせんといかんかなと思いつつ施設を後にしていた。だから危篤の知らせはにわかには信じられなかった。
「横浜に住んでいるので、すぐに駆け付けるというわけにはいかないのですが」
「えっ!横浜ですか?お姉さんにも電話したんですが、電話に出られないんですよ」
「わかりました。とにかくすぐに向かいます」
大急ぎで姉たちにLINEで一報を入れた。キーを打つ指がもどかしい。手間取っているうちに次姉から「母危篤」のメッセージが入る。とりあえず4日分の着替えと喪服をバッグに詰め込むと、レンタカーをネット予約した。レンタカーは新幹線を降りてからの足だった。妻に呼んでもらったタクシーに慌ただしく乗り込んだ。
午後3時過ぎ、母が搬送された病院に着いた。
母は口と鼻に人工呼吸器をあてがわれて眠っていた。くも膜下出血だった。傍らで2人の姉が心配そうに見守っていた。そしてその日から5日間眠り続け、一度も意識が戻ることなく旅立っていった。
こうして思わぬ形で私の実家じまいがスタートすることになった。