朝9時、不動産屋に関係者全員がそろった。
これで本当に実家を手放してしまうのかと思うと、少し緊張した。
そんな空気を察したのか、不動産屋さんは雑談から始めた。話題は、買い手さんが生業にしている林業のことだった。買い手さんは熊に遭遇したことがあるという体験談を披露した。不動産屋さんは、猟銃を持って山に入ったが、ウリ坊が撃てなかったという体験を語った。そんなことでいつの間にか20分が経過していた。
「それでは」と場が改められた。
「重要事項説明書の説明から始めます」
不動産屋さんが1頁目の冒頭から読みあげ始めたので、「何時間かけるつもり?」と不安になったが、すぐに要点だけの説明に切り替わった。
重要事項説明書の説明が終わると、唐突に不動産屋が言った。
「売買代金の支払いを先に済ませましょう」
契約書の押印もしていないのに、先に支払うって、ありか?
そう思ったが、買い手さんはさっさと支払う態勢に入った。カバンから封筒に入った現金を取り出して、不動産屋さんに渡す。すると、不動産屋さんはそれをテーブルの私の目の前に置いた。
「確認してください」
私と妻は一瞬躊躇したが、黙って数え始めることにした。
数分かかって数え終わった。
「間違いありません」
続いて媒介手数料を支払った。
不動産屋さんは「確かに」といって、領収書を差し出した。
固定資産税の分担の精算に移った。
金額が1円単位の端数になっていたので、「端数はいらないです」と言いかけたが、すでに領収書が用意されており、1円単位までぴったりで受け取った。
こうして売買契約書の締結より前に、すべての支払いが完了してしまった。
物件説明に移った。
住所変更と地目変更の登記が完了した証に、持参してきた登記完了証を二人にみせた。
すると不動産屋が
「わぁ、すごい!それ、全部ご自分でやられたんですか?」
「はい」と返すと、横から妻が
「元公務員ですから」
「どこの役所だったんですか?」
「経済産業省です」と妻
「はぁ~!そうだったんですか」
「登記申請も趣味みたいなものですから」と妻
続けて「細かいことを言って嫌われてたんじゃないですか?」
不動産屋さんが
「いやぁ、大事なことですから」と半分嫌味で返してきた。